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期をとげました。その時、正行はまだ二十三歳でありました。

血刀を洗ふ
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血刀を洗ふ
     菊池      ┌武重
藤原隆家‥‥武房─□─武時┼武敏
             └武光

數年ののち、親房が六十三歳でなくなると、近畿きんき方面の官軍はおひおひ振るはなくなつてしまひました。ただ九州では、菊池武敏の弟武光たけみつが、懷良親王を奉じて、賊將少貳賴尚せうによりひさ筑後川ちくごがはの戰で擊ち破り、さらに筑前ちくぜんへ進んで、敵の根城大宰府だざいふを攻め取り、かがやかしいてがらを立てました。筑後川の戰は、ことにはげしい戰で、武光の奮鬪ふんとうは、實にめざましいかぎりでした。かぶとはさける、馬は傷つく。敵をつて、そのかぶとをうばひ、馬をうばひ、血刀を振るつて、當るをさいはひなぎ倒すといつた働きでした。武光は、一氣に京都へのぼらうとしましたが、志をはたさないで、陣中で病死しました。

新田氏もまた、義貞の子善興よしおきが、宗良親王を奉じて、東國で活躍くわつやくしました。親王が

  君のため世のためなにかをしからん
      すててかひある命なりせば

とおはげましになると、善興らは、勇氣を振るつて戰ひました。しかしその善興も、武運つたなく、敵のはかりごとにかかつて、武藏むさし