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矢口渡やぐちのわたしでたふれました。

かうして勤皇の武將は、吉野の櫻のやうに、いさぎよく大君のために散りました。後村上天皇のおんのち、〈第九十八代〉長慶ちやうけい天皇・〈第九十九代〉後龜山ごかめやま天皇の御代となりましたが、これらの忠臣は、黑雲のやうにむらがる賊の軍勢を破つて、つねに大義の光をかがやかしました。「歌書よりも軍書に悲し吉野山」といふやうに、まことにおん四代五十七年間の吉野山は、壯烈な軍物語いくさものがたりで滿たされてゐます。

今、吉野神宮にお參りして、六百年の昔をしのぶ時、谷をうづめて咲く花は、これら忠臣たちが、後醍醐天皇の御靈みたまを、いつの世までもおまもり申し、おなぐさめ申しあげてゐるやうに思はれます。その忠臣たちも、朝廷から高い位をたまはり、今は神として、それぞれ社にまつられ、國民に深くうやまはれてゐます。

第七 八重やへ潮路しほぢ

一 金閣きんかく銀閣ぎんかく

もともと足利あしかが氏は、よくに目がくらんで、朝廷にそむきたてまつり、を以て軍勢を集めたのです。從つて賊軍は、いつも見苦しい内わもめをくりかへして來ました。尊氏たかうぢの孫義滿よしみつになつて、やつと部下のわがままをおさへることが、できるやうになりましたので、後龜山天皇に、おわびして、京都へお歸りくださるやう、ひたすらお願ひ申しあげました。

天皇は、義滿の願ひをお聞きとどけになつて、めでたく京都にくわん