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Page:Textbook of Japanese History for Elementary School on 1943 vol 1.pdf/74

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うして、金崎かねがさき城や杣山そまやま城を根城にして、大いに敵を破りました。しかし、賊の勢は、なかなかおとろへず、やがて官軍に苦戰の日が續いて、おそれ多くも皇子方も、討死なさる御有樣おんありさまです。後醍醐天皇に何とおわびをしてよいか、義貞は、はらわたもちぎれる思ひがしました。今はただ、最後の勝利しようりようと、ひたすら心を引きたてながら、力のかぎり戰ひましたが、延元三年のなかばすぎ、つひに藤島ふぢしまの戰で、壯烈きはまる討死をとげました。まだ三十八歳の働きざかりでありました。

義貞戰死の少し前、北畠顯家も、和泉いづみ石津いしづで討死しました。顯家は、さきに結城宗廣とともに、義良親王を奉じて、奧羽を固めてゐましたが、天皇が吉野に行幸になつたと聞くと、ただちに吉野へと向かひました。途中賊軍にさまたげられ、やうやく親王を吉野へお送り申しあげたのち、いたるところで敵と戰ひ、まだ二十一歳の若さで、惜しくも討死したのです。

忠臣が次々にたふれて、吉野に、さびしい秋が來ました。しかし、天皇の志はいよいよ堅く、北畠親房・顯信あきのぶらに、義良親王を奉じて奧羽にくだり、官軍の勢を回復せよと、お命じになりました。一行は、伊勢から海路をとつて、東へお進みになりました。不幸ふかうにも、途中大風のため、義良親王の船は伊勢へ吹きもどされ、宗良むねなが親王の御船は遠江とほとふみに、親房の船は常陸ひたちに着くといふ有樣でした。

その年も暮れて延元四年となり、やがてまた秋を迎へました。夜もろくろくおやすみにならない、ながい無理のためでせうか、おそれ多くも天皇は、おん病におかかりになり、つひに御年五十二で崩御ほうぎよあらせられました。御位にいらせられること二十二年、笠置・