來ました。天皇は、ひとまづ比叡山に行幸になりました。義貞は、名和長年らと力を合はせ、賊を退けようとしましたが、つひに長年も討死し、京都の回復は、困難となりました。天皇は、官軍が振るはないのを御心配になり、義貞を行宮にお召しになつて、
「皇太子恆良親王を奉じて北國へおもむき、勢をもりかへして京都を回復せよ。」
との御命令を、おくだしになりました。また懷良親王を征西大將軍として、九州へおつかはしになり、西國の官軍をおはげましになりました。
延元元年12月、天皇は、神器を奉じて吉野におうつりになり、ここに行宮をお定めになりました。吉野は、けはしい山に圍まれた天然の要害であり、伊勢と河内を東西にひかへて、諸國の官軍をおすべになるには、きはめて都合のよいところでした。ことに、この地は、かつて護良親王の御奮戰になつたところであります。藏王堂のかたほとりに、おそれ多くも天皇は、花のたよりもよそに、ひたすら官軍の吉報をお待ちになりました。
北國へ向かつた義貞・義顯は、途中きびしい寒さと吹雪になやまされ、苦しい行軍を續けながら、やうやく越前にはいりました。さ