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老尼の意氣
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老尼の意氣

特に、文永の苦戰にかんがみ、敵の上陸を防ぐために、博多灣一たいに石壘せきるゐを築きました。國民いつぱんに節約を命じて、軍費ぐんぴをたくはへさせたり、あらたに西國武士の總大將を置いたりしました。さらに軍船を整へ、進んで敵地に攻めこむ計畫けいくわくさへ立てました。これを聞く國民の血は、一せいにわきたちました。肥後ひご井芹秀重ゐぜうひでしげといふ老人や、眞阿しんあといふ老尼らうにまでが、身の不自由をかへりみず、たよりにする子や孫を、國のためにささげようといふ意氣にもえたちました。

その間に、元は宋をほろぼし、その海軍を合はせて、いつそう強大になりました。さうして、蒙古・高麗・宋の諸將を會し、作戰をねりにねつて、今度こそはと、いきり立ちました。折から支那にゐたわが商人が、急を知つて、すぐに知らせて來ましたので、朝廷では、敵國の降伏かうふくを全國の神社や寺々にお祈らせになり、幕府は、九州の警備をいよいよきびしくしました。國民の心は、いやが上にもひきしまり、武士たちは、てぐすね引いて、待ちかまへてゐました。

紀元一千九百四十一年、弘安こうあん四年五月に、まづ兵四萬・艦船九百隻の東路軍とうろぐんが、朝鮮から博多へとせまりました。河野通有かうのみちあり菊池武房きくちたけふさ竹崎季長たけざきすゑながらの勇將は、石壘によつて、一步も敵を上陸させません。