ことごとく壯烈な戰死をとげました。そこで敵は、壹岐から博多灣へせまり、つひに上陸をあへてしました。筑紫の武士は、力のかぎり戰ひまいしたが、敵のすぐれた兵器、變つた戰法になやまされて、なかなかの苦戰です。しかし、日本武士の魂が、果して、かれらの進擊をゆるすでせうか。身を捨て命を捨てて、防ぎ戰ふわが軍のために、敵はじりじりと押し返されて行きます。この奮戰が神に通じ、博多の海に、波風が立ち始めました。敵は海上の船を心配したのか、それとも、わが軍の夜討ちを恐れたのか、ひとまづ船へ引きあげて行きました。夜にはいつて、風はますますはげしく、敵船は、次から次へと、くつがへりました。中には、逃げようとして、淺瀨に乘りあげた船もあります。敵は、殘つた船をやつと取りまとめ、命からがら逃げて行きました。これを、世に文永の役といひます。
これにもこりず、元は、あくる年、またも使ひをわが國へよこしました。すると時宗は、一刀のもとにこれを斬り捨てて、鎌倉武士の意氣を示すとともに、一面かうした使ひの往來のために、わが國のやうすが敵にもれることを防ぎました。もちろん、元は國の面目にかけても、再征をくはだてるつもりで、すでに、いやがる高麗に命じて、船を造らせてゐましたし、時宗もまた、それを見ぬいて、ひたすら防備を固めました。