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ら離れて行きました。源氏のみかたは、しよ國にかくれて、平家をほろぼす機會をねらつてゐました。

〈第八十一代〉安德あんとく天皇の治承ぢしよう四年に、まづ源賴政よりまさが、後白河法皇の皇子わうじ以仁王もちひとわうを奉じて、兵をげました。すばやい平家の攻擊にあつて、賴政は、惜しくも宇治うじでたふれ、以仁王は、流矢にあたつて、おなくなりになりました。しかし「平家を討て」との王の命令は、水にとうじた波紋のやうに、國々の源氏へひろがつて行きました。

二 富士ふじ卷狩まきがり

  ┌義朝┬賴朝┬賴家─公曉
爲義┤  ├範賴└實朝
  │  └義經
  └義賢─義仲

以仁王の御命令が東國に傳はると、源義朝の長男賴朝よりともが、まづふるひたちました。賴朝は、平治の亂で源氏がやぶれた時、十四歳で伊豆いづへ流され、その後二十年餘り、父のうらみをはらす日の來るのを待つてゐたのです。

いよいよ、その時が來ました。かねて、源氏に心を寄せてゐた東國の武士も、賴朝の旗あげを聞き傳へて、續々と集つて來ます。賴朝は、これらの兵をひきゐて相模さがみにうつり、源氏とえんの深い鎌倉を根城にしました。ちやうどそのころ、一族の木曾義仲きそよしなかも、信濃しなので兵を擧げ、源氏の意氣は、大いにあがりました。

おどろきあわてた清盛は、ただちに孫の維盛これもりに大兵を授けて、鎌倉へ向かはせました。賴朝の軍勢も、鎌倉をたちました。東へ向かふ平家の赤旗、西へ進