む源氏の白旗、この兩軍は、富士川をはさんで相對しました。ある夜のこと、源氏の一隊が、敵の不意をつかうとして、ひそかに川を渡り始めますと、あたりの沼で眠つてゐた水鳥が、びつくりして、一度にばつと飛びたちました。おどろいたのは、平家の軍勢です。それ敵の大軍が押し寄せたとばかり弓矢を捨てて、逃げ足早く都へ歸りました。戰はずして、まづ勝つた賴朝は、黃瀨川まで陣をかへして、しばらくやうすを見ることにしました。弟の義經が、はるばる奧羽からかけつけたのは、この時のことです。京都では、やがて清盛が死んで、宗盛が後をつぎ、さしもの平家も、いよいよ落ち目になつて來ました。
木曽義仲の勢も、一時はなかなか盛んでした。越中の倶利伽羅峠で、維盛の大軍を擊ち破ると、義仲は、一氣に京都へせまりました。浮き足たつた平家の一族は、宗盛にひきゐられて、住みなれた都を後に、西國へと落ちて行きました。かうして、まづ都に入つた義仲は、勝つた勢に乘じて、さんざんらんばうを働きます。それを聞いた賴朝は、源氏の名譽のために、弟の範賴・義經に命じて、義仲を討たせました。するとその間に、平家は勢をもりかへして、攝津の福原まで歸つて來ました。
いよいよ源氏と平家のはなばなしい合戰が瀨戸内海の美しい