平治の亂で、源氏は、平家のために、またまた一族の要であつた義朝を失ひ、ちりぢりばらばらになつてしまひました。かうして平家は、その全盛期を迎へたのです。
清盛は、朝廷に重く用ひられて、〈第七十九代〉六條天皇の御代には、太政大臣に進み、一族のものも、それぞれ高い官位にのぼりました。一門の領地は、三十餘國にまたがり、中には「平家でないものは人でない」などと、いばるものさへ現れました。まつたく、平家の勢は、わづかの間に、藤原氏の全盛期をしのぐほどになりました。
思ひあがつた清盛は、勢の盛んなのにまかせて、しだいにわがままをふるまふやうになり、一族のものもまた、これにならひました。ただ長男の重盛だけは、忠義の心があつく、職務にもまじめな人で、平家が榮えるのも、まつたく皇室の御惠みによるものであることを、よくわきまへてゐました。つねに、父清盛のふるまひに深く心をいため、皇恩のありがたさを説いて、父のわがままを直さうとつとめました。清盛が、おそれ多くも、後白河法皇をおしこめたてまつらうとした時、重盛は死を覺悟して、その無道をいさめました。惜しいことに、その重盛は、父に先だつて、なくなりました。こののち、清盛のわがままは、いよいよつのるばかりです。人々の心も、しだいに平家か