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まさが、大人もおよばないてがらを立てたのは、この時のことです。亂が平ぐと、義家は、わざわざ自分の財產ざいさんを分け與へて、部下をいたはりました。東國の武士は、その恩に感じて、源氏のためなら、身を捨ててもかまはないと、思ふやうになりました。

金色堂
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金色堂

みだれにみだれた奧羽も、これですつかりしづまつて、この役で義家を助けた藤原清衡きよひらが、治めることになりました。清衡は、都の風をうつして平泉ひらいづみをいとなみ、ここを奧羽の中心としました。今に殘る中尊寺ちゆうそんじ金色堂こんじきだうは、〈第七十五代〉崇德すとく天皇の御代に、清衡が建てたものです。

平家の勢が盛んになり始めたのは、崇德天皇の御代に、忠盛ただもり瀨戸内海せとないかいの海賊を平げたころからです。その後、二十年ばかりの間に、平家は西國さいごくを根城にして、めきめきと勢をのばし、源氏と竝んで朝廷に用ひられるやうになりました。もうこのころ、藤原氏は昔の威勢を失つて、やつとその地位をたもつてゐるだけです。しぜん、勢をた源氏と平家とが、京都でにらみ合ふことになりました。

桓武天皇─葛原かつらはら親王─高見たかみ王─平高望たかもち……忠盛┬清盛┬重盛─維盛
                     │  └宗盛
                     └經盛つねもり─敦盛

やがて〈第七十七代〉後白河ごしらかは天皇の御代に、保元はうげんの亂が起ると、源氏は、武運つたなく爲義ためよし爲朝ためともを失つて、忠盛の子清盛きよもりのひきゐる平家が、源氏をしのぐ勢となりました。さらに〈第七十八代〉二條にでう天皇の御代に起つた