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三 鳳凰堂ほうわうだう

太宰府といへば、〈第六十八代〉後一條ごいちでう天皇の御代に、ここの役人であつた藤原隆家たかいへが、九州に攻め寄せた刀伊といといふ外敵を打ち拂つて、大きなてがらを立てたことがあります。都は、藤原氏全盛ぜんせいのころで、賴通よりみちが關白に任じられ、父道長みちながのために、法成寺ほふじやうじといふりつぱな住居を建てました。それが、刀伊を打ち拂つたのと同じころです。道眞がなくなつてから、もう百年餘りたつて、世の中もずゐぶん變つてゐました。

藤原鎌足─不比等ふひと良房よしふさ─基經┬時平     ┌道隆みちたか─隆家
              └忠平ただひら─□─兼家かねいへ┴道長┬賴通…忠實ただざね┬忠通
                         └教通のりみち   └賴長よりなが

醍醐天皇の御代、唐と渤海ぼつかいが相ついでほろび、次の〈第六十一代〉朱雀すざく天皇の御代には、新羅しらぎもほろびました。わが國と大陸諸國との長い間の交りも、ここで、ひとまづ絶えてしまひました。このころ都では、藤原氏が、朝廷のおもな官位をひとりで占めてゐましたから、ほかの諸氏で、はたらきのある人たちは、だんだん地方の役人になりました。かうなると、藤原氏は、すつかり氣をゆるめて、政治にはげまうとしません。春は花、秋は紅葉もみぢにくらして、生活は、はでになるばかりです。一族だけ威勢がよくなると、今度は親子・兄弟が、たがひに勢をあらそふやうにさへなりました。

かうして、藤原氏はさかえに榮えましたが、一條天皇・〈第六十七代〉三條さんでう天皇・後一條天皇の三代に仕へた道長と、後一條天皇・〈第六十九代〉後朱雀ごすざく天皇・〈第七十代〉後冷泉ごれいぜい天皇の御三代に仕へた賴通とが、いはば藤原氏の最も