ることを御心配になり、家がらよりも人物のすぐれた菅原道眞を重くお用ひになりました。道眞は、眞心ふかく親切で、その上なかなか賢い人でありました。學問はよくできるし、歌や詩も上手でありました。朝廷に仕へてからも、國史の本を作つたり、遣唐使をやめることを奏上したり、なかなかすぐれた意見を示しました。特に遣唐使については、このころ、唐がすつかりみだれてゐましたので、支那のことを硏究することは、まつたくむだなことだと見てとつたからです。
やがて〈第六十代〉醍醐天皇が、御年十三歳で御位におつきになり、御父宇多天皇の御志をおつぎになつて、道眞を右大臣といふ高い官にお進めになりました。藤原氏は、時平が左大臣に任じられましたが、年も若く、學問からいつても、はたらきからいつても、道眞にはかなひません。從つて、天皇の御信任も人々の評判も、しぜん道眞に集ります。時平は、それがだんだんねたましくなり、とうとう、仲間のものとわるだくみをして、道眞を太宰府へうつし、都から遠ざけてしまひました。
道眞がいよいよ筑紫に旅立つ時のことです。正月といふのに、その館だけは、深い悲しみに包まれてゐました。庭には、日ごろ愛する梅が、今を盛りと清らかな香を放つてゐます。風もないのに、一ひら二ひら、やり水の上にこぼれて、靜かに流れて行きます。
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春を忘るな
一首の歌に心をのべた道眞は、氣をとりもどして、旅支度を整へました。