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地の農業に役だつてゐます。朝廷では、二人の功をおほめになつて、その死後、最澄には傳教大師でんげうだいし、空海には弘法大師こうぼふだいしがうをお授けになりました。

支那では、このころ唐がおとろへ始めたので、大陸との交通かうつうも、前ほどさかんでなくなつて來ましたが、しかも尊いおん身を以て、支那ばかりか、遠くマライ方面までおでかけになつたお方があります。それは、桓武天皇の御孫眞如親王しんによしんのうで、親王は、はじめ空海から佛教をおまなびになり、〈第五十六代〉清和せいわ天皇の御代には、唐へ渡つて、その硏究をお深めになりました。その後、さらに、唐からインドへおいでにならうとして、廣東くわんとん出發になりました。おんよはひも、すでに高くいらせられながら、遠く異鄕いきやうにお出ましになつたおん心、思へばまことに尊くかしこききはみでありますが、不幸ふかうにも、途中でおなくなりになりました。土地の人々は、日本の尊いお方であると知つて、てあつくとむらひ申しあげたと傳へてゐます。

二 太宰府だざいふ

桓武天皇ののちも、御代御代の天皇は、新しい法令や制度を作つて、政治をおひきしめになりました。國は都の名のごとく、安らかに治りました。かうして五十年ほどたつ間に、鎌足かまたり以來の功によつて、藤原ふぢはら氏の勢が、目だつて盛んになりました。やがて清和天皇のころから、藤原氏は、攝政せつしやうまたは關白くわんぱくといふ高い官職に任じられ、政治を思ふままに動かすやうになりました。

〈第五十九代〉宇多うだ天皇は、このわがままな藤原氏によつて、政治がみだれ