第三 奈良の都
一 都大路と國分寺
やがて〈第四十代〉天武天皇が、飛鳥の宮居で御位におつきになるころは、國の備へも、すでに十分でありました。それに、唐の勢がくだり坂となり、新羅と唐が、まもなく爭ひを始めたので、わが國にとつては、ますます有利となりました。そこで天皇は、國内の政治をいつそうよくするため、いろいろな御計畫をお立てになりました。中でも、法令を整へること、りつぱな都を建てること、國史の本を作ることの三つが、その主なものでありました。さうして、これらの御事業は、そののち、御代御代にうけつがれ、次々に完成されて行くのであります。まづ〈第四十二代〉文武天皇の御代には、大寶律令が定まつて、法令が整ひました。
大きな都を造るには、用意もなかなかたいへんですから、すぐといふわけには行きません。〈第四十一代〉持統天皇が香久山の西にお造りになつた藤原宮は、ずゐぶんりつぱな都ではありましたが、やがて〈第四十三代〉元明天皇の御代に、すばらしい都が、大和の北部、今の奈良の近くに、できあがりました。東西四十町、南北四十五町といふ大きな構へで、これを平城京といひ、また奈良の都ともいふのであります。
天皇が、この都におうつりになつたのは、紀元一千三百七十年、和銅三年のことであります。これまで、都といへば、大和平野の南部を中心に、ほとんど御代ごとにうつされ、新しく造られたのであり