太子として、まつりごとをおたすけになりました。このころ、改新の政治も、よほど整つて、皇威は、海外へ及ぶやうになりました。まづ、蝦夷の反亂をしづめるため、阿倍比羅夫をやつてお討たせになりました。比羅夫は、水軍をひきゐて蝦夷をしづめ、さらに沿海州を攻めて、蝦夷のあと押しをする肅愼をこらしめました。
やがて、中大兄皇子が御位をおつぎになり、〈第三十八代〉天智天皇と申しあげます。このころ半島では、新羅の勢がますます強く、大陸では、唐の最も盛んな時代でありました。しかも、この兩國が力を合はせて、百濟や高句麗を攻めるので、わが國は、わざわざ兵を送つて、百濟をたすけたのでありますが、やがて、百濟も高句麗も、相ついでほろびてしまひました。わが國にのがれて來た、たくさんの百濟人は、みな、てあつい保護を受けました。
かくて新羅や唐は、いつわが國へ攻め寄せるかわからない形勢となりました。天皇は、御心を深く國防のことにお注ぎになり、長門や筑紫に守備兵を置き、水城をお造らせになりました。また、國民の氣分を新たにするため、都を近江の志賀の里におうつしになり、法令や戸籍を整へて政治をひきしめ、産業を盛んにして物資をゆたかにするなど、もつぱら國力を增すことに、おつとめになりました。かうした御苦心のうちに、やがて四十六歳で、おかくれになりました。
天皇をおまつり申しあげる近江神宮は、今、琵琶湖のほとり、志賀の都のあと近く、おごそかに立つてゐます。ここにお參りして、遠く大化の古をしのぶと、三十年の御苦心と御惠みの數々が胸によみがへつて、ありがたい感激に滿ちるのであります。