や人民を使つて、勢力爭ひするものが出て來ました。朝鮮へ出向いてゐる人たちの成績も、あまりよくありません。それに、このころ新羅の勢は、目だつて強くなり前からの約束を破つて、しばしば半島の平和をみだします。かうして〈第二十九代〉欽明天皇の御代、紀元千二百年ころから百年ばかりの間、わが國は、内も外も、まつたくゆだんのできない有樣となりました。
〈第三十三代〉推古天皇は、かうしたなりゆきを深く御心配になり、聖德太子を攝政として、ゆるんだ政治の立て直しに、力をおつくさせになりました。太子は、人なみすぐれてりつぱなお方で、二十一歳の御時、攝政におなりになりました。まづ、政治をひきしめる手始めに、すぐれた人を重く用ひる方法をお立てになりました。役目を家がらだけで固める習はしは、政治のみだれるもとになると、お考へになつたからです。ついで、十七條の憲法を作つて、臣民の心得をこまごまとお示しになりました。その中に「詔を承けては必ず謹め。」「國民はみな天皇の臣民である。政治をつかさどるものは、勝手なふるまひをして、民草を苦しめてはならない。」ときびしくおさとしになつてゐます。また「和」の大切なことをおときになつてゐるのも、朝廷に仕へる人々の爭ひを、なくしようとの思し召しに、よるものであります。やがて太子は、百官を引きつれ、天皇