Page:Textbook of Japanese History for Elementary School on 1943 vol 1.pdf/24

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に從つて、神々をあつくおまつりになりました。それは、神をまつることが、政治のもとゐであるからであるとともに、このころ、國民の中には、外國から來たぶつけうをよろこぶあまり、神をまつることをおろそかにするものが、あつたからであらうと思はれます。

法隆寺
法隆寺

佛教が我が國に傳はつたのは、欽明天皇の御代のことであります。ぶつざうをまつつてよいかどうかについて、蘇我氏ともののべ氏とがはげしく爭つたこともあります。そこで太子は、佛教を十分お調べになり、これを日本の國がらに合ふやうにして、おひろめになりました。推古天皇の思し召しによつて、法隆寺をお建てになつたのも、御父〈第三十一代〉ようめい天皇に對する孝心からであります。このやうに、太子は佛教の長所をお取りになり、お示しになつたので、これにならつて、信じるものが多くなり、人々の心もおちつき、學問や美術・こうげいも、いちじるしく進むやうになりました。

太子はまた、新羅をしづめることをお考へになるとともに、かねがね、大陸に目をお注ぎになつてゐましたので、始めて、支那との國交をお開きになりました。このころ、支那では、ずゐといふ國がおこつて、たいそう勢が強く、まはりの國々を見くだして、いばつてゐました。しかし太子は、使節をののいもこにお持たせになつた國書に、堂々