おつきになりました。天皇は「神鏡を身近く奉安してゐるのは、まことにおそれ多いことである。」とお考へになり、御鏡に御劒をそへて、これを大和の笠縫邑におまつりになりました。〈第十一代〉垂仁天皇もまた、その御志をおうけになり、伊勢の五十鈴川のほとりに、あらたな社殿をお造りになつて、そこにおまつりになりました。これを皇大神宮と申しあげます。國民も、今はまのあたりに神宮を拜して、ますます敬神の心を深め、國の尊さを、はつきりと心に刻むやうになりました。
世の中はいよいよ開け、人口は多くなり、產業もまた進んで來ました。そこで崇神天皇は、御惠みを國のすみずみまでおよぼさうとの思し召しから、四人の皇族を北陸・東海・山陰・山陽の四道へおつかはしになりました。これを四道將軍といひます。また人口を調べ、みつぎ物を定めて、政治をお整へになり、池をほらせて農業をお進めになり、さらに、諸國に命じて船を造らせ、海國日本の備へを固くなさいました。このころ、朝鮮の大伽羅(任那)といふ國が、となりの新羅におびやかされて、わが國に助けを求めましたので、天皇は鹽乘津彦に軍勢を授けて、おつかはしになつたこともあります。垂仁天皇は、もつぱら御父の御業をおつぎになつて、農業をお進め