になり、ひたすら民草をおいつくしみになりました。あの田道間守の物語によつても、御高德のほどをおしのび申すことができるのであります。かうして御二代の間に、國の力は一だんと強まり、御稜威は遠く海外に、かがやくやうになりました。
しかし、交通の不便なこのころのことですから、遠い九州や東北の地方には、皇室の御惠みを、まだ十分にわきまへないものがありました。〈第十二代〉景行天皇から〈第十四代〉仲哀天皇の御代にかけて、西の熊襲、東の蝦夷が、しばしば、わがままなふるまひをくりかへしました。おそれ多くも、景行天皇は、御みづから熊襲を討つておしづめになり、また武内宿禰に命じて、蝦夷のやうすをお調べさせになりました。それでもなほ治らないので、皇子大和武尊に、重ねてお討たせになりました。尊の御勇武によつて、熊襲もしばらく鳴りをひそめ、蝦夷もまたしづまりました。東國へお出かけになる時、尊は、特に皇大神宮の御劒をお受けになり、神々のおまもりによつて、御武運をお開きになつたのでありました。かうして、今や御稜威は東西にかがやき、やがて〈第十三代〉成務天皇の御代になると、國や郡が設けられ、役人が置かれて、地方の政治が大いに整つてきました。
ついで、仲哀天皇がお立ちになつてまもなく、またまた熊襲がそむきました。天皇は、神功皇后とともに、將兵をひきゐて、筑紫へおくだりになりましたが、熊襲がまだしづまらないうちに、おそれ多くも、行宮でおかくれになりました。皇后は、御悲しみのうちにも、新羅が熊襲のあと押しをしてゐることを、お見やぶりになり、武内宿禰の考へをもおくみになつて、いよいよ、新羅をお討ちになることになりました。紀元八百六十年のことであります。