大神の御心を國中にひろめよう。」と仰せられ、皇兄五瀨命たちといろいろ御相談の上、陸海の精兵を引きつれて、勇ましく日向をおたちになりました。
日向灘から瀨戸内海へ、御軍船は波をけたてて進みました。行く行く御船をおとどめになつて、各地のわるものをお平げになり、また苦しむ民草をお惠みになりました。御稜威をしたつて御軍に加るものも、少くありませんでした。島山の多い内海のこととて、春の朝、秋の夕の美しい眺めが、御軍人のつかれをなぐさめたこともありませう。かうして、長い年をお重ねになりながら、天皇は、やうやく難波へお着きになりました。
生駒山をひとつ越えると、めざす大和の國であります。御軍は、勇氣をふるつて東へ進みました。ここに、長髓彦といふわるものが、饒速日命を押し立て、多くの手下を引きつれ、地の利にたよつて、御軍に手むかひました。孔舍衞坂の戰では、おそれ多くも、五瀨命が敵の流矢のために、深手をお負ひになりました。それほどの激戰だつたのです。この形勢をごらんになつて、天皇は「日の神の子孫が、日へ向かつて戰を進めるのはよくない。」と仰せになり、海路紀伊半島を熊野へと、おまはりになりました。しかも途中の御難儀は、かくべつでありました。五瀨命は、竈山でおかくれになり、悲し