まごひをなさつて、神勅と神器を奉じ、文武の神々を從へ、天上の雲をかき分けながら、ををしくおごそかに、日向の高千穗の峯にお降りになりました。この日をお待ち申しあげた民草のよろこびは、どんなであつたでせう。空には五色の雲がたなびき、高千穗の峯は、ひときはかうがうしく仰がれました。
その後、〈第一代〉神武天皇の御時まで、代々日向の國においでになり、大神の御心をついで、まつりごとにおいそしみになりました。かうして、豐葦原の瑞穗の國は、御惠みの光ゆたかに、日向の國から開けて行くのであります。瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜草葺不合尊の御三方を、世に日向御三代と申しあげます。さうして、可愛山陵・高屋山上陵・吾平山上陵に、遠く御三代の昔を、おしのび申しあげるのであります。
二 橿原の宮居
日向御三代ののちは、神武天皇の御代であります。雲間にそびえる高千穗の峯から、御惠みの風が吹きおろして、筑紫の民草は、よくなつきました。ただ、遠くはなれた東の方には、まだまだ、御惠みを知らないわるものがゐて、勢を張り、人々を苦しめてゐました。天皇は「東の方には、青山をめぐらした、國を治めるのによい土地があるといふ。都をうつしてわるものをしづめ、