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 この心如何にせん。」

その頃が最も苦しかつたらしく、また、死との闘争も激しかつたやうに見受けられた。私にも、おれはまだ死にたくない、どうしても書かなければならないものがあるんだ。もう一度恢復したい。と悲痛な面持で云つた事もあつた。彼は腸結核で死んだのである。

 彼は最後の一瞬まで、哀れなほど実に意識がはつきりしてゐた。文字通り骨と皮ばかりに瘦せてはゐたが、なかなか元気で、便所へなども、死の直前まで歩いて行つたほどである。その辛棒強さ、意志の強靭さは驚くばかりであつた。それでも死ぬ三四日前には、起上るにも寝返りするにも、流石に苦痛を覚えたらしく、私が抱起してやるとほつとしたやうに、さうして呉れると助かるなあ、と嬉しげであつた。寝台が粗末で狭いので、瘦せこけてゐる背中のあたりが悪く、あまつさへ蒲団が両脇に垂れ下がり、病み疲れた体にはその重量がいたく感じるらしく、よく蒲団が重いなあ……と苦しげに呟いた。私が蒲団を吊つてやらう、と云ふと、彼は俄かに不機嫌になつて、ほつといて呉れ、君、ここは施療院だぜ。施療院の、おれは施療患者だからな。出来るだけ忍ばにやならんよ。それに蒲団を吊ると重病人臭くていかん。と怒つたやうに云ふのであった。平素の彼が、全く我儘無軌道ときてゐるので、こんな時、思ひがけなく彼の真の姿に触れ、たじたじとさせられる事がよくあつた。

 来る日も来る日も重湯と牛乳を少量、それも飲んだり飲まなかつたりなので、体は日増に衰弱する一方であつた。食べる物とては他に何も無いのであつた。流動物以外の物を一寸でも食べようものなら、直ちに激しい痛みを覚え、下痢をするらしかつた。彼はよく、おれは今何もいらん。只麦飯が二杯づゝ食ひたい、そのやうになりたい、と云つた。創元社の小林さんからの見舞品も、殆ど手をつけなかつた。尤も、これはおれの全快祝ひに使ふんだ、と云つて、わざわざ私に蔵はせて置いたのである。

 それらの品々は悲しくも、お通夜の日、舎の人達や私達友人の淋しい茶菓となつた。彼はまた口癖のやうに、こん度元気になったら附添夫を少しやらう。あれはなかなか体にいい、やつぱり運動しなけや駄目だ。まづママ健康、小説を書くのは然る後だ、と云つて、よくなつてからの色々のプランを立ててゐた。そんな時の彼は恢復する日を只管待ち侘びてゐたらしく、また必ず恢復するものと信じてゐたやうであつた。小説はかなり書きたいやうだつた。君、代筆して呉れ。と云つたり、ああ小説が書きたいなあ……と悲しげに呟く事などもあつた。じつと寝たなりで居るので色々な想念が雲のやうに湧いて来るのであらう、おれは今素晴しい事を考へてゐた。世界文学史上未だかつて誰も考へた事もなく、書いた者もない小説のテーマなんだと確信ありげに云ふ事もあつた。

 病気によいといふ事はたいていやつてみてゐたらしいが、たいして効果は無かつたやうだつた。時には変つた療法を教へたりする人があると、真向から、そんなものは糞にもならん、あれがいいこれがいいと云ふものは凡てやつてみたが、却つておれは悪くした。結局、病人は医者にいのちを委せるより他ないんだ、と喰つて掛る事もあつた。

 死ぬ二三日前には、心もずつと平静になり私などの測り知れない高遠な世界に遊んでゐるやうに思はれた。おれは死など恐れはしない。もう準備は出来た。只おれが書かなければならないものを残す事で心残りだ。だがそれも愚痴かも知れん、と云つたのもその頃である。底光りのする眼をじつと何者かに集中させ、げつそり落ちこんだ頰に小暗い影を宿して静かに仰臥してゐる彼の姿は、何かいたいたしいものと、或る不思議な澄んだ力を私に感じさせた。私は時折り彼の顔を覗き込むやうにして、いま何を考へてゐる? と訊ねると何も考へてゐない、と答へる。何か読んでやらうかと訊くと、いや何も聞きたくない、と云ふ。静かな気持を壊されたくないのであらう。