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 彼の死ぬ前の日。私は医師に頼んで、彼の隣ママ寝台を開ママけて貰つた。夜もずつと宿つて何かと用事を足してやる為であつた。私が、こん晩から此処へ寝るからな、と云ふと、さうか、済まんなあ、と只一言。後はまた静かに仰向いてゐた。補助寝台を開けると、たいていの病人が、急に力を落したり、極度に厭な顔を見せたりするのであるが、彼は既に、自分の死を予期してゐたのか、目の色一つ動かさなかつた。その夜の二時頃 (十二月五日の暁前) 看護疲れに不覚にも眠つてしまつた私は、不図私を呼ぶ彼の声にびつくりして飛起きた。彼は瘦せた両手に枕を高く差上げ、頻りに打返しては眺めてゐた。何だかひどく昂奮してゐるやうであつた。どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んで呉れないか。と云ふ。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもは一寸触つても痛いと云ふのに、その晩に限つて、もつと強く、もつと強くと云ふ。どうしたのかと不思議に思つてゐると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いてゐた。こんな晩は素晴しく力が湧いて来る、何処からこんな力が出るのか分らない。手足がぴんぴん跳ね上る。君、原稿を書いて呉れ。と云ふのである。いつもの彼とは容ママ子が違ふ。それが死の前の最後に燃え上つた生命の力であるとは私は気がつかなかつた。おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であつた。私は周章てふためいて、友人達に急を告げる一方、医局への長い廊下を走り乍ら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚えバカ、バカ、死ぬんぢやない、死ぬんぢやない、と呟いてゐた。涙が無性に頬を伝つてゐた。

 彼の息の絶える一瞬まで、哀れな程、実に意識がはつきりしてゐた。一瞬の後死ぬとは思へないほどしつかりしてゐて、川端さんにはお世話になりつぱなしで誠に申訳ない、と云ひ、私には色々済まなかつた、有難う、と何度も礼を云ふので、私が何だそんな事、それより早く元気になれよ、といふと、うん、元気になりたい、と答へ、葛が喰ひたい、といふのであった。白頭土を入れて葛をかいてやるとそれをうまさうに喰べ、私にも喰へ、と薦ママめるので、私も一緒になつて喰べた。思へばそれが彼との最後の会食であつた。珍らしく葛をきれいに喰つてしまふと、彼の意識は、急にまるで煙のやうに消え失せて行つた。

 かうして彼が何の苦しみもなく、安らかに息を引き取つたのは、夜もほのぼのと明けかかつた午前五時三十五分であつた。もはや動かない瞼を静かに閉ぢ、最後の訣別を済ますと、急に突刺すやうな寒気が身に沁みた。彼の死顔は実に美しかつた。彼の冷たくなつた死顔を凝視めて、私は何か知らほつとしたものを感じた。その房々とした頭髮を撫で乍ら、小さく北條北條と呟くと、清浄なものが胸元をぐつと突上げ、眼頭が次第に曇つて来た。

 彼が死んではや二週間、その間お通夜、骨上げ、追悼と、慌しい中に過ぎ、いま彼の遺稿の整理をし乍ら、幾多の長篇の腹案に触れ、もうあとせめて五六年、私の生命と取替へてでも彼を生かしてやりたかつた、としみじみとした思ひがした。残り尠ない彼の日記を読んでゐるうちに、ふと次の詩のやうな一章が眼についた。彼のぼうぼうとした寂寥と孤独、その苦悩の様がほぼ窺はれるやうな気がするので、此処に引用する事を許して戴き、心から彼の冥福を祈りたい。


粗い壁

壁に鼻ぶちつけて

深夜、

虻が羽搏いてゐる。

(昭和十二年十二月記)