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臨終記


東條耿一


 彼が昭和十二年九月の末、胃腸を壊して今年二度目の重病室入りをして以来、ずっと危険な状態が続いて来たが、こんなに早く死ぬとは思はなかつた。受持の医師が、私に、北條さんはもう二度と立てないかも知れません。ママと云はれたのは彼が死ぬ二十日ばかり前の事であつた。私はその時はじめてそんなに重態なのか、とびつくりする程迂闊に彼に接してゐたのである。来る春まではまあむづかしいにしても、正月ぐらゐは持越すものと信じてゐた。それほど彼は元気で日々を送り迎へてゐたのである。彼にしても、こんなに早く死が訪れようとは思はなかつたに違ひない。尤も死期の迫りつつあることは意識してゐたらしく、その頃の日記にも、

「かう体を悪くしたのも、元を質せば自ら招けるものなり。あきらめよわが心。

 けれど、かう体が瘦せてはなんだか無気味だ。ふと、このまゝ病室で死んでしまふやうな気がする。」

 また重態の日々が続いた後であらう、苦悶の様が書かれてゐる。

「しみじみと思ふ。怖しい病気に憑かれしものかな、と。

 慟哭したし。

 泣き叫びたし。