はその肉体と同様、潰瘍し切ったどす黒い色を呈していた。眉毛も頭髪も殆ど脱落していて、私の一向見知らぬ男であった。
これもある白昼の事件である。
その日は特に暑さがきびしかった。じっとしていてもだらだらと汗が流れやまない。
私は廊下に出て昼食の塩魚を焼いていた。焼きながら窓越しに裏庭の風景を慢然と眺めていた。たださえ〔ママ〕暑いところへ炭火の熱気に煽られて、胸といわず背中といわず汗が淋漓と小止みもなく流れた。と、その時、まったく不意に、背後から音もなく私に組付いて来た者がある。私はびっくりして思わずわッと叫びを上げ、不意を衝かれてたじたじと後ろに踉めいた。途端に、そのまま折重って堂と倒れた。そして、仰向けになった私の体の下で真理屋の彼がゲラゲラ笑っているのだ。私はカッと怒りが湧いた。
「バカッ、離せ、何をするんだ。」
しかし、彼は下敷になったまま両手を私の腹に廻し、しっかと抱き付いていて離さない。彼も裸なので、汗みどろの肌同志がぬらりぬらりと粘着して気分の悪いこと一通りではない。漸く彼の手足を振りほどいた時には、魚は真黒に焦げていた。
「バカッ君はどうしてこんな真似をするんだ。」
私は体の汗を拭いながら彼をきめつけた。すると、彼はにやにやしながら、私の前に葡萄色した頭を突き出した。
「ベートヴェンさん、さあ私を擲って下さい。蹴りつけて下さい。あなたにそうして戴けますと、私は本当に嬉しいのです。さあ思いきり擲って下さい。あなたは私の恋人です。私の大好きなベートヴェンさん……。」
私は苦々しく顔を顰めたまま黙って部屋へ這入ってしまった。この男ばかりはどうも本気になって怒れない。張合がないのである、私が擲るぞと睨みつけても、彼は笑いながら頭を突き出し、どうぞ存分に擲って下さいという。お前みたいな奴は監禁してしまって、一歩も外へ出さないぞと大きな鍵を出してじゃらじゃらさせて見せても、彼は頭をぺこぺこ下げながら光栄ですと答え、自分から特別室の扉を閉ざして
彼が私に対して、斯のような抱きつくていの素振りを示したのはこれが始〔ママ〕めてではない。何かにつけてそれとなく私の体に触れてみたいらしいのである。始めのうちは私もそれに気付かなかったが、彼の不作法な、一種の変態性慾者的行為が度重なるにつれ、それは彼が故意にしているのであることを私は知った。一度こんな事があった。ある朝、私がまだよく睡っているうちに彼がこっそり入って来た。そして、いきなり、私の被っていた掛布団を足許からばっと取除けた。そうしてその布団をそのまま抱え込んで、寝巻一つで愕いて飛起た私の姿を見て絶間もなく笑いこけるのである。私も流石に腹を立てて、お前みたいな奴は水風呂へ叩き込んでやると怒鳴りつけて彼の手首を捉えた。勿論、脅しの積りだった。が彼は悄気返るどころか有難うございます有難うございますと礼を述べ、いそいそと自分から先に立って湯殿へ行くのである。これには私も呆れ果てて、腹を立てた自分がお可笑しくもあるやら面映ゆくもあった。その時、彼は同僚の附添夫の一人に私についてこんなことを云ったそうである。
「あの人は女じゃないですか。体のつくりや動作はどう見ても女ですよ。私はあの人がめっぽう好きなんです。あの人になら殺されても惜しくはありません。ああ、私のベートヴェンさん……。」