Page:TōjōKōichi-Flowers of Frost-2002-Kōsei-sha.djvu/8

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 彼は私に対して次第に特別な科や性癖を示すようになった。彼は他の附添夫の云う事は一切聞き入れなかった。しかし、それがひとたび私の唇から出た言葉であると、彼は欣んでどのような事でも聞分けた。二ケ月もすると、彼は明けても暮れても最早や私なしではすごせないほどの、執拗な、奇好な愛情を現し始めた。私の側に附纏ったきり金輪際離れようとしないのである。配給所へ行くにも、売店へも、彼はまるで私の腰巾着のように尾いて来る。はては厠へ行くにも後を慕い、用が済むまで扉の外で待っている。

 やがて、彼は保管金の通帖から在金全部を私の所に持って来た。どうぞお願いですから自由に使って下さいというのである。他の事とは違い、金の事であるから、そればかりはならぬと私は固く突っばねた。すると、彼はそれでは棄てて了うと云ってきかない。押問答してみたが無駄である。私は困って同僚とも相談し、彼の金はひとまず主任のTさんに預って貰うことにして、この話は一段落ついた。が、この金の問題があってからは、彼はこん度は色々な品物を買込んで来て私の所に持って来る。菓子、果物、飲料水、タバコ等々である。私はこれらも同様きびしく叱って取上げなかった。すると彼は忽ち悲観してそれらの品を全部下水壕に棄ててしまった。ついには私の居ない隙を狙って、机の上とか戸棚の隅にこっそり置いて行く。それを彼は毎日のように繰返す。いくら叱ってみても効果がなかった。私は再度同僚と相談して、売店の店員に彼が来ても一切物を売らぬように頼み込んだ。斯うして彼のプレゼント癖は一時中止のやむなきに至った。

 しかし、彼は三度、私へのプレゼントを考えついた。そして、直ちにそれを実行に移した。しかし、このプレゼントは些か時日を要し、私は彼から彼の誠心こめた? プレゼントを手にするまで少しもそれに気付かなかった。売店で相手にされなくなってから、彼は編物を始めたのである。終日、特別室に閉じ籠ったきりで、彼は器用な手つきでせっせと編棒を動かしていた。編物は発狂前にもやっていたらしい。売店から客扱いにされない彼が、どうして夥しい毛糸類を持っているのか始め私は不審に思ったが、それは発狂前に買い込んで置いたのと、郷里から送って寄越した物とであることが判明した。

 薄暗い室に黙念とあぐらを組み、明り窓から差し込んで来る光に真向って編物に余念もない彼の姿を、私は毎日のように眼にした。真理真理と叫ぶこともなくなった。真理の面を取除けて以来、彼は真理という語をついぞ口にしたことはなかった。口癖のような真理の二字は、べートヴェンという私への愛称に替えられたのである。

 やがて彼の編物は、見事なスエターとなって完成した。そして、彼は早速それを私に着てくれと懇願し始めた。私は始ママめて彼が何故編物に専念しだしたのか、その真意を納得することができた。私はとにかく預って置くと云ってスエターを受取った。しかし、彼の編物は更に続けられた。スエターは二枚となり三枚となった。その中の一枚には苦心してベートヴェンという文字まで編み込んだ。

 彼はしだいに衰弱して来た。三度の食事も欠ける日が多くなった。それでも彼は編棒を離さなかった。私は彼に対して、云い様もない寂寥と憐憫、恐怖の情の募るのをおぼえた。何もかも私に責任があり、何もかも私の所為のように思われだした。しかし、幸いなことに毛糸が尽きた。編み果してしまったのである。私は思わずほっとしたが、彼はひどく弱り切って口をきくこともなくなった。特別室の羽目に凭れて、明り窓からぼんやりと空を眺めている日が多くなった。煙突事件が起きたのはそれから間もなくである。


 窓にさしのぞく蜂屋柿が艷やかな色を見せている。百舌の声がきんきん泌みる。今朝もまた真白な霜であろうか。狂人を相手に他愛もなく暮している間に早やそのような季節になったのである。不図、時の素早い推移に愕ろきながら、起床前の数分をその日も私はうつらうつらしていた。起床時間は既に来ている。僅々数分にすぎない床の中のひと時は、しかし、附添夫に取ってはなかなか味わいの深いものである。