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隅に蹲ってきいきいと悲鳴を上げるのである。いい、いい、と云って院長は私を制し、

「どうだ、真理を発見したかな……。」

 と彼の方へ明るく笑いかけた。すると、彼はくるりと向き直ってぺこんと頭を下げ、憑かれたように叫び出した。

「真理ですか。真理と云いますと……あっ、そうですか、真理、真理、いやあ、真理ほど良いものはありませんね。」

 そうして昂然と胸を張り、面を揺すって何時までも笑うのであった。


 あるくれがたのことである。

 私は北側の非常口に腰を下ろして、夕食後の憩いを撮ママりながら出鳕目の歌など口吟んでいた。――この非常口は、士官候補生殿が生前よく竹藪の雀を眺めていたところである。今も雀達が潮騒のような羽音を撒いて藪一ぱいに群がっている。

 私は暫らくいい気持で歌っていた。と、突然、ろ号特別室の扉がばたんと慌しく開いて、

「あッ、似ている、似ている、あの人だッ」

 と頓狂な声が泳ぐようにこちらへ近づいて来た。まったく不意打ちだったので、私は思わずぎょっとして腰を浮かせた。

「あッ、あッ、似ている、似ている、やっぱりそうだ。……」

 真理の面を不気味にぬっと突き出して、私の顔をしげしげと眺めるのである。

「何が似ているんだ。びっくりするじゃないか。」私は漸く落着を取戻して叱るように云った。

「似ているんですよ。あなたはベートママヴェンに似ているんです。いや、ベートヴェンだ。ね、お願いです、お願いです、ベートヴェンになって下さい。ベートヴェンだとおっしゃって下さい……。」

 彼は私のまえに跪ずき、両手を合せて、伏し拝む真似をする。私が黙っていると、彼はおろおろ声で頻りに嘆願するのである。

「じゃあ、私がベートヴェンになればいいのかい?」

 私はついお可笑しくなって笑い出しながらそう訊いてみた。

「ええ、そうです、そうです。あなたはベートヴェンです。間違いなくそうなんです。それで、私が、ベートヴェンさんと呼びましたら、どうぞ『ハイ』と返事をして下さい。お願いします。どうぞこの願いを聞き届けて下さい。」

 彼は熱心にそう云って頭をぺこぺこと下げるのである。そんな御用ならいと容易いことなので私は直ぐ承諾した。すると、彼は、あッあッと叫んで手を打ち、飛上って、恐ろしく喜ぶのである。

「有難い、有難い。ベートヴェンさんが私の願いを聞入れて下さった。ああ嬉しい……」

 大仰な歓喜の身ぶりを示し、そうして、ベートヴェンさんと改めて私を呼んだ。私は到頭楽聖にされたのかと苦笑しながら、ハイと元気よく答えてやった。

「あッ、返事をしてくれましたね。ああ、こりゃ堪らん。ベートヴェンさんは返事をしてくれた……。」

 彼は私の手を取らんばかりにして、再度私の顔をまじまじと凝視めるのである。軒看板のような目前の真理の面を眺めながら、私は、不図、寒々しいものを身内におぼえた。

 不思議なことに、その翌日から、彼は真理の面を附けなかった。取去るのをあれほど嫌って、執拗に長い間掛け続けていた面を、どうして急に彼がかなぐりすてるようになったのか、私は理解に苦しんだ。彼の顔