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らは竹の葉のそよぐ様や、移り行く雲の片影ぐらいしか見えないのだが、候補生殿は殆ど身動きもせず、それらの小部分の光景に見惚れておられる。彼が特別室の外へ出るのは、日暮れになって雀の立騒ぐ様を眺める時だけで、その時はコトンコトンと松葉杖の音をさせながら、幽霊のような姿を非常口へ運んで行く。幽霊のようなと私は云ったが、まったく候補生殿の姿は輪廓ママがおぼろげで、特別室の入口に、それも真夜中に、しょんぼり佇んでいる彼の姿を、厠へ立ちながら何気なく眼にした時など、真実亡霊のように思われてぞーんと寒気立つことがある。

 候補生殿は殆ど口をきくこともなく、終日、むっつりと押し黙っていられるが、時にどうかすると、気を付けぇーという凄じい号令が特別室の中から聞えて来ることがある。続いて、

 長上ノ命令ハ其事ノ如何ヲ問ハズ直チニコレニ服従シ抗抵干犯ノ所為アルべカラザル事。

と、軍人読法を一ケ条ずつはきはきした口調で読み上げる。それが済むと、何かぼそぼそと相手の者に説明しているような声が聞えて来る。私も最初のうちは候補生殿の室に誰か他室の者でも来ているのだろうかと思って覗きに行ったが、彼の他には誰も居ないのだ。候補生殿只一人、便所の入口に不動の姿勢を取り、あれこれと説諭し、命令していられるのである。松葉杖を放り出し、足の悪い彼がおごそかに佇ちつくしている姿は、滑楮というよりもむしろ憐れである。

 私はある時こんな場面を見た。それは私が附添夫になってまだ間もない頃の事で、その日は特にぎらぎらと眩らむほどの暑い日であった。ふと、昼寝から醒めてみると、というより本当は醒まされたのであるが、どっし、どっしと歩調を整えた足音が長い廊下を行ったり来たりしている。その足音は隣室の前から非常口の方に遠のき、再び響きを立ててこちらに帰って来るのだ。誰もがぐんなりと疲れて声も立て得ないこの日中に、一体何であろうと思って、私はそっと立って行って廊下を覗いて見た。そして、瞬間、云い様もない佗しい気持にさせられた。それは蔵さんという白痴の小男が、汗をだらだら流しながら、箒を銃替りに担い軍靴ならぬ厚ぼったい繃帯の足をどしんと板の間へぶちつける様にして歩いているのだ。しかも繃帯には血が滲んで、それが一足毎に赤黒い汚点を廊下へ印して行くのだ。それだけならまだしも、非常口の所には肌ぬぎになった候補生殿が、いかめしく直立して監視していられる。それも松葉杖を指揮刀がわりに構えて、今や調練のさ中といった恰好なのである。私が呆気に取られて見ていると、やがてのことに、候補生殿は、全隊止まれぇー、と大喝して持っていた松葉杖を振った。とたんにこちらに向って進軍して来た蔵さんは、候補生殿の前にピッタリ止まって挙手の礼をした。候補生殿はおもむろに礼を返して、而して真面目な面持で、御苦労であったと声を落して云った。

 私は彼が死ぬまで、彼が本当に士官候補生なのかどうかはもちろん知る由もなかったが、同僚の話では、軍隊から直接この病院に送られて来たのだという。癩院生活二十年というから、現在の彼の病状から見ると、病勢の進行はまあ普通であったと云えよう。入院して二年目あたりから幾分精神に異状を来し始めたらしいという。その頃の事情は審らかではないが、一時は相当錯乱の程度も激しかったようで、特別室に放り込まれると、その夜、いきなり、電球に飛付いて笠を叩き割り、その破片で左腕の動脈を切断してしまったという。手当の早かったのと治療の宜しきを得て、どうやら生命は取止めたが、爾来、体の調子がはかばかしくなく、あまつさえ病の方も癒えぬままに、精神病棟の候補生殿で暮して来たのであるという。動脈をどうして切る気になったのか?と気の鎮まった時に医者が訊ねると、動脈を切れという上官の命令があったからだと彼は答えた。その時上官はお前の面前に居たのか?と重ねて訊ねると、いや無電が掛って来たのだと答えたそうである。彼の動脈切断後、特別室の電燈は高い天井板にじかに点されるようになった。

 ある日。候補生殿の食事を運んで行くと、附添さん、と彼は哀れげな声で私を呼んだ。同僚の附添夫の一