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人が急性結節で急に寝込んだので、候補生殿の世話は臨時に私が受持っていた。彼の招くままに私は候補生殿の傍らに跼んで何の用かと訊ねた。彼はひどく悲しげな面持で暫く私の顔を凝視めていたが、実は私は気狂いでも何でもないと言い出した。

「私は気なんぞ狂ってはいない。みんなが寄ってたかって私を気狂い扱いにして、こんな所へ放り込んでしまったのだ。それを思うと私は腹が立ってならぬ。私は立派な帝国の軍人なのだ。歩兵士官なのだ。だのに先生 (医者) 始め患者めまで、立派な軍人に対して侮辱を与えるのだ。私はもうこんなところにはいられない。郷里へ帰るのだ。郷里には母が居る。私が帰れば母は喜んで私の世話をしてくれる。――あれが私の母です。そしてこちらが私の若い頃のものです。どちらも二十年前に撮ったものです……。」

 そこで候補生殿は傍らの古びた蜜柑箱を伏せて台となし、その上に飾ってある二葉の写真を示した。それは何時も只一つの彼の荷物、古風な信玄袋と共に同じ場所に飾ってあるものであった。私は別に興味もおぼえなかったので、まだしみじみとその写真を見たことはなかった。母というのは五十近い上品な感じの婦人で、何かの鉢の木を傍らにして撮っている。それに隣り合って並んでいる一葉は、恐らく士官学校卒業の時、記念に撮ったものでもあろうか、候補生の軍服を着用し、軍刀を握っている姿はなかなか凜然としている。しかし、眉の濃い苦みばしった男振りは、今の彼の何処を探しても見当らない。私は癩者の変貌の激しさに愕ろくよりも、現在の彼と写真の主とが同一人であるとは何としても受取り得なかった。私はしみじみと候補生殿の姿を眺めていた。

 そこで、実は、あなたにお願いがあるのです。と彼は相変らず悲しげな調子で私に云った。

「私は明日にも郷里へ帰ろうと思います。で、あなた私を連れて行って下さいませんか? 荷車とあなたを借り受ける交渉は私がします。あなたさえ承知してくれたら、只今から院長に直接会って掛合います。お願いです。廃兵の私を哀れと思ってどうぞ郷里へ送り届けて下さい。この通りお願いします……。」

 彼は涙を流しながら、私の前に両手をつかえて頼むのである。その様子はまんざらの狂人とも思えぬほど、虔しく、物静かな態度である。私はどう答えてよいやら返答に困って、ただ凝っと聞いていた。私が黙っているので、彼は益々熱心に連れて行ってくれと云ってきかなかった。

「で、あなたの郷里というのは何処ですか。」

 愈々返答に窮したので私は仕方なくそう訊ねてみた。すると、彼は急に瞳を輝かせて欣しそうに涙を拭きながら答えた。

「山梨です。」

「山梨?」と鸚鵡返しに云ったまま私は暫し啞然としていた。充分彼の心情は掬すべきであったけれど、山梨までこの男を荷車に乗せて曳いて行く。そう思っただけで私は何か慄ッと寒気立つのをおぼえ、とにかく私一人の考えでは答えられぬからと云って、尚おママも取縋ってくる彼を払い除けるようにして、ひとまず候補生殿の室を引上げてきた。早速、同僚達を召集してこの話をすると、彼等はくす笑いながら、君はまだいい所があるよ、あれは奴のおはこなんだよ、と云って一笑に附してしまった。

 私もそれで思わずほっとしたが、候補生殿の様子が余り真剣だったので、この儘素知らぬふりですごすのは何となく悪い様な気がした。恐らく彼は私にした様に涙を流しながらどの附添夫にも頼み込んだのであろう。そして誰からも相手にされなかったのであろう。偶々新米の私を見て、何度目からの熱誠溢れる郷里行の懇願を始めたのであったろう。そして私からも他の附添同様色よい返事を聞かれなかったわけなのだ。しかし、彼は新しい附添夫の来る毎に、切々たる荷車行の心情を変ることなく吐露するに違いない。何故なら、それは彼の最も哀れな病の一部であるから。