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官の役割に変りがないので、刑事事件についてもそのまま妥当すると解すべきである。そして、本件が再審によるいわゆる逆転無罪判決があつた場合に関するので、このような事例に即して右五七年判例の依つて立つ所以について考えてみると、我国現行の訴訟は訴訟物(刑事では公訴事実)に対し法律を当てはめ、申立にかかる権利義務(同じく、国家の具体的刑罰権)の存否を判定する構造になつているが、右訴訟物等の中核をなす事実の確定は、主として当事者により法廷に顕出された証拠のみに基づいて(時には経験則の助けを借りて当該証拠を評価した上で)なされる仕組みになつており、それ以外の方法で事実の確定をすることは原則として許されていないので、このように、証拠のみを通して認識された事実が時として実体的真実と隔たる結果となる事態を避け難い本質を内包していることに鑑みるならば、当該裁判官が証拠力の評価に際し裁判官に付与されている自由心証上の裁量権を敢えて逸脱し、盗意的に経験則や論理法則を無視して判決をしたような場合は格別、そうでない限り、当該裁判が後日再審等で覆されたことを理由に、直ちにこれを右の違法行為に該当するとしたのでは、或意味で訴訟制度自体を否定することにつながりかねない、耐え難い結果となるからである。

  一審被告は、検察官の行為についても右五七年判例と同様の理解をなすのが相当であると主張する。検察官の事実認識の方法も証拠のみに基づいてなすべき点で裁判官と同じである上に、前記五三年判例の示す如く、起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証の程度は判決時におけるほど高度のものでなくともよいとされていること、刑事訴訟上の諸制度は検察官の認識や判断に誤りがありうることを前提とし、それを検証是正するための手続であるともいいうること、これらの諸点に徴すると、いわゆる結果違法説的な考え