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機として述べているところは首肯できるところであり、ヒロポン常用と性格の凶暴性のゆえに本件殺害の挙に出るということもこれまた十分にありうることである。

三、次に〔己〕が真犯人を告白するに至つた経緯について供述するところを検討してみるに、
1 〔己〕作成の前記上申書、証人〔己〕(第一、二回)の供述記載によれば、〔己〕は強盗傷人の事件で秋田刑務所拘置場に留置されていた頃から、那須が無実の罪で自分に代つて服役していることに悩み、信仰の力でこれを解決しようとしてキリスト教に関心を寄せ、修道女との間においても、それとなく右悩みについて教えを乞う文通を重ねていたところ、右事件で有罪判決が確定し服役中の昭和四六年二月頃宮城刑務所内病舎に入所していた折、同じ病室内にいた〔乙26〕に対し、自分の代りに殺人で一五年の刑をつとめた人がいるが、自分がその事件の真犯人であると告白したことが認められる。
2 函館地方検察庁検察事務官作成の前科調書、昭和三五年二月八日付逮捕状(写)、昭和四九年三月一日付東北地方更生保護委員会委員長〔乙54〕作成の「捜査関係事項について(回答)」と題する書面(添付の各書類を含む。)、身柄関係報告書の各記載によれば、〔己〕は、昭和三五年二月一日強盗傷人の事件で同月八日逮捕され、同年三月一一日より昭和三七年一月二五日までは弘前、柳町各拘置支所、同月二六日から昭和三八年六月三日までは、秋田刑務所拘置場、同月四日(右事件判決確定)から同年七月四日までは秋田刑務所、同月二五日から昭和四六年三月一一日まで宮城刑務所にそれぞれ入所していたことが認められる。