Page:Retrial judgement of Hirosaki incident.pdf/62

提供:Wikisource
このページは校正済みです

によれば、その当時の大和館は昭和三〇年頃屋根だけを残して改築され、その際便槽は汲み上げてセメントを流し込み修理を施こしたことが認められるので、今となつてはこれを確める由もないが、二階のスクリーンの向つて左側に女便所があつたことは右記載により認められるので、この点の〔己〕の供述は事実と符合しないわけではない。

⑸ 次に動機について、〔己〕は「その頃癖のようになつていたが、当夜も女性にいたずらしようと思つて、午後一一時前頃に家を出て歩き廻つていたところ、いつしか〔乙〕方附近に来た……。」と供述する。
  昭和二五年六月五日言渡の青森地方裁判所弘前支部、同二六年九月二五旦言渡の仙台高等裁判所秋田支部の各判決謄本、身柄関係報告書、棄却審証人〔乙52〕、同〔乙32〕、同〔乙25〕、同〔己〕(第一回)の各供述記載によれば、〔己〕は、小学校高等科を卒業後国鉄弘前機関区に勤めたが、昭和二四年五月末に退職し、以後弘前市大字相良町〔略〕〔乙38〕方に間借りしてミシンの修理販売業を営んでいた父〔乙53〕の許で右修理業を手伝つていたが、そのかたわらダンスに凝り、また国鉄機関区に勤めていた頃覚えたヒロポンの施用をも継続していたもので、同年九月三日逮捕され、同二六年九月二五日仙台高等裁判所秋田支部において懲役七年の刑に処せられた事件の概要は、
(イ) (窃盗)昭和二四年四月下旬頃弘前市在府町木村産業研究所階上のダンスホールにおいて女性所有の手提等を窃取し