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載、同審検証調書および同写真報告書の記載によれば、木村産業研究所の階上は、本件発生当時ダンスホールに使用されており、井戸は〔己〕の供述する箇所にあつて、直径一メートル位で、今次大戦前からあつたが、その終戦時には既に使用しておらず、木村産業研究所の者らは永いことその所在すら知らなかつた。

  同研究所の管理者は、本件再審請求がなされて(昭和四六年七月一三日再審請求)よりこれを探し、同井戸傍の小屋を修理していた大工に教えられて始めてその所在を知つた程であつた。そして右小屋附属の便所は、終戦直後一時使用していたことが認められる。
⑶ 以上を総合し、また前記第二、㈡、5、(5)に説示の〔乙〕は警察官が現場に来る前に表門の所に赴いたところ潜り戸は約四〇センチメートル開かれてあつたとの点を併せ考えると、〔己〕が供述するところの「凶器を手に掴んだまま潜り戸から出て、別紙図面㈡のとおり右方(南方)へ曲り、進んでまた右方(西方)へ、さらにその先を右方(北方)へ曲り進んだが、血が垂れていたので垂れないようにしようとして、木村産業研究所の中に入つた。当時同研究所の階上にはダンスホールがあり、同ホールにはダンスをしにしよつちゆう行つていて、その際研究所の門から入つて約二〇メートル先の北方寄りにある小屋に附属している便所を使用したことがあつたから、その小屋の傍を抜け便所の裏(東側)の暗いところに行つたところ、そこに井戸があつた。」「そこで鞘代りにしていた布を凶器に巻きつけて……同所を出た。」(それから)「右方(北方)へ進み……茂森町に出た。」という逃走経路は、前記証拠によつて認められる当時の状況にまことによく符合するものというこ