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た。」「そこで鞘代わりにしていた布を凶器に巻きつけて……同所を出た」(それから)「右方(北方)へ進み……茂森町に出た」という逃走経路は、当時の状況にまことによく符合するということができる。

 尚原一審検証調書(一回)によれば、〔乙〕方表門前の路上血痕のうち一点は門前の橋から北方九尺(二・七二メートル)のところに滴下していることが明かである。(別紙㈠参照)これは〔己〕が上申書で述べている「私宅には茂森町に向はずに弘前大学医学部の方向に行けば早いのですが、余り現場から近いと犬等使われると発覚する危険があるので、故ら遠回りをしたのです。」と述べているところから窺われる〔乙〕方門を出て北に行きかかつたが思い直して南に方向を変えて逃走したと思われる状況によく合致するところである。
7 〔乙10〕方内の血痕等
⑴ 昭和二四年八月八日午後一時頃那須方東隣りの弘前市在府町〔略〕〔乙10〕方屋敷内の玄関前敷石上に直径一ないし二・四センチメートルの血痕様斑痕六点、同屋敷内の南側(道路寄り)で那須方寄りにある笹藪(丈およそ一尺位―〇・三〇三メートル位)の中の笹の葉上に同様斑痕七点、那須方屋敷内で〔乙10〕方との境界となつているさわらの生垣附近の笹藪の中の笹の葉上に同様斑痕八点が、また同日午後二時頃に〔乙10〕方表門の東側に接する潜り戸の敷居上に同様斑痕二点が発見されたこと、右潜り戸には本件犯行の頃蔦がからみ、外部から一見しては潜り戸の存在が判明し難く、また同戸は錠をかけず常に開閉自由のところであつたこと、さらに〔乙10〕方と那須方との境にあるさわら