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『それでもいゝ……』
木村が行きつけだといふ喫茶店はすぐ傍の露地にあつた。
『やあ――』
木村は馴れた挨拶をすると、
『珍らしいレコードなんだがね、一寸かけさせてくれないか』
『あら、片盤なの、贅澤なもんね』
三坪ばかりの店には、時間のせゐか一人も客がなくて、ぼんやりしてゐた少女が、だるさうに立つて來た。
『まあ聽いてろよ、僕がかけてやる』
木村は、自分でレコードをかけると、
『はじまるぜ……』
レコードは廻り出した。しかし、一向に音󠄁がしないのである。サーツといふ針が溝の中を走る音󠄁ばかりだ。
と、しばらくたつて、カチツ、カチツ、といふ音󠄁が、ほゞ一廻轉位の間隔を置いて鳴り出した
『へんだね、罅が入つてゐるのかね』
河上がいつた。
『それにしても罅の音󠄁だけとは情󠄁けない――、どこでこんなもんを手に入れたんだ』
さういつてゐる中に、針は、溝を半󠄁分以上も廻つてしまつた。それなのに、相變らずカ
『駄目だ駄目だ、もう一枚の方をかけて見よう……』
ところが、あとの一枚も、カチツ、カチツといふ音󠄁きりなのである。
『おーい、
木村は、腐つたやうな顏をして蓄音器の傍に立つたまゝの河上を見下した。
『ばか〳〵しい、もうよさう――』
さういつた木村が、レコードを止めようとした時だつた。
溝の後半󠄁を廻つてゐた針先が、ボーンといふ音󠄁を捉へると、それに一寸間を置いて、やつと何かの錄音を再生しはじめた。