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のに神の存在を含む、何となれば、若し存在を缺かば之れを完全なる者と謂ふべからず、故に完全なる者即ち神は必然存在すべき者なりと。彼れが此の論證はアンセルムスの有名なる論證と比べて殆んど相同じきが如し。然るに彼れは其の論のアンセルムスのと同じからざることを論ぜむと力めたり。曰はく、アンセルムスの論證は唯だ神てふ言葉の意義を說明するに止まる。我が論はしからず、そは我が論旨は唯だ神てふ言葉は完全なる者といふことを意味し而して完全てふ者の中には存在をも含まざる可からずと云ふに止まらずして我れは完全なる者といふ觀念を考へざる可からず、而してそを考ふると共に其の者を實在する者と考へざる可からずと云ふことに在りと。デカルト自らは此くの如くに論ずれども彼れが此の最後の證明は實際アンセルムスのと區別し難し。旣に先きにも說明せし如く、其の根柢に橫はれる思想を見る時はアンセルムスの論證も諸事物を考ふるには其が必須の根據として圓滿なる者の存在を認めざる可からずと云ふ實在論的思想に基づけるを知る。デカルトが論證も畢竟此の實在論上の思想の發表せられたるものに外ならず。請ふ左に更に委しく之れを辯ぜむ。