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《神の存在の論證つづき。》〔七〕神の存在に關するデカルトが最後の論證の立ち得むには先づ限りなき者てふ觀念の必須のものたるを要するは勿論なり。縱令神を考ふる以上は存在てふことを含めて考へざる可からずと云ふとも神を考ふる必要なくばそは全く無用の論なるべし。而して神を考ふる必要は何處より來たるぞと問はば吾人の如き限りある、不完全なる者の存在することより來たらざる可からず。我れの如き不完全なる者の眞實に存在することは是れデカルトが吾人の意識の直接なる證明によりて疑ふべからずとなせる所、而してかく不完全なる者の存在し得むには先づ完全なる者を存在すと考へざる可からず、何となれば不完全なる者を何程多く集むともそこに完全なる者を得ること能はず、寧ろ限り無きものを姑らく限り見てこゝに始めて限り有るものの存在を考へ得べし。此の故に我れといふ如き限りある者の存在にして若し疑ふべからず、又我れが限り無きもの(即ち神)といふ觀念を有し居ることにして若し疑ふべからずば、我れの原因として必ず無限者を實在するものと考へざる可からずと。是れデカルトが神の存在を論證する根本思想なり。一言に云へば、原因は實在に於いて及び完全なることに於いて結果