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が學術界に於ける名聲は益〻高くなりゆき而してこれと共に彼れに向かへる論難も盛んなりしが、殊に神學者輩は懷疑說及び無神論を唱ふる者の如く見做して彼れを攻擊せり。其の攻擊はプロテスタント敎徒及び羅馬加特力敎徒の双方より來たれり。一はその如き煩累を避けむが爲めなりけむ、彼れは瑞典の女王クリスティーネの招聘に應じて其の宮廷に行けり。されど慣れざる宮廷の生活と北地の氣候の彼れに適せざりしとに由り瑞典に赴ける翌年遂に病を得て歿しぬ。時に一千六百五十年二月十一日なりき。
上に揭げし『エセー、フィロゾフィック』及び『メディタシオーネス、デ、プリーマ、フィロゾフィア』の外デカルトが著書の主なるものを擧ぐれば『ブリンシピア、フィロゾフィエ』("Principia philosophiae" 哲學原理、一千六百四十四年刊行)『トレテ、デ、パシオン、ド、ラーム』("Traité des passions de l'âme" 心情論、一千六百四十九年刊行)及び彼れの死後に出版せる『ド、ロム』("de l'homme" 人間論)等なり。
デカルトは其の自ら好める學術の硏究に靜かに從事し得むがため成るべく表面上當時の敎會に反對せず、成るべく嫌疑を受くることを避けむとしたり。此の點