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を以て遂に此等の學者を巴里府より放逐したりき。デカルト當時『ル、モンド』(Le Monde 世界)と題する書の著作に從事し、コペルニクスが地動說を取りて世界の成り立ちを論じ已に完結に近からむとせしがガリレオの迫害せられしを聞き之れを祕して世に示さざりき。一千六百三十七年彼れは其の朋友の切なる勸吿に從ひて始めて『エセー、フィロゾフィック』(Essais Philosophiques 哲學論集)を發刊せり。此の書は四つの論文より成れるもの、その第一は『ディスクール、ド、ラ、メトード』(Discours de la méthode 學術硏究法論)にして是れ彼れが學問上の自叙傳の如きものにして其が哲學の新方針を發見して之れを組織せむとするに至れる順序を述べたるものなり。而して第二及び第三の論文は物理的現象を論じたるもの、第四は彼れが數學上の發見として數學界にも其の名聲を留めたる解析的幾何學なり。超えて四年『メディタシオーネス、デ、プリーマ、フィロゾフィア』("Meditationes de prima philosophia")を公にせり。是れ彼れが書の最も主なるものにして其の之れを發刊するに先きだちガッセンディ、ホッブス等を初めとし當時の有名なる學者の批評を得て之れを添へ、また其の批評に封するデカルト自身の答辯をも附加して之れを出版せり。彼れ