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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/85

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を懸けたり。かくて彼れはプラーグの攻落及び匈牙利への進軍に與りし後故國佛蘭西に歸りぬ。彼れが家族は彼れが妻を迎へて官職に就かむことを欲したりしが、彼れの志望はこゝに在らざりしを以て其の家事を整へ己が所有を賣りて學問の爲めに再び漫遊に出で立ちぬ。かくて彼れは先きに懸けたる願を果たさむが爲めロレットなるマリアの廟に詣で後に和蘭に居を卜して靜かに自家が生涯の大事業と見定めたる學術の硏究に取り掛かりたり。彼れの和蘭に在るや成るべく其の住所を隱さむが爲めに其の居を移すこと十三たび、また彼れが故國に直接に文通を爲しゝは彼れがラ、フレッシよりの親しき學友メルセンヌへのみなりき。彼れが斯く和蘭に靜かなる生活を求めたる原因の少なくとも一と見るべきは成るべく學術上の意見のために累されざらむことを欲したるにあり。當時學問上の新意見を唱ふるは決して容易の事にあらず、羅馬敎會は之れに對して嚴しき監督を爲さむとし、ブルーノは已にそれが爲めに燒かれ、ガリレオは表面上其の說を枉げたり。又一千六百十二年巴里府の年少なる學者數人アリストテレースの物理說に反對してアトム論を唱へたりしや羅馬敎會は其の宗義に反對する故