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然科學の硏究に其の心を注ぎたり。巴里に在りてはデカルトの親友なるメルセンヌ及びガッセンディ等と相來往し自國に在りてはベーコンと相識り、また其の曾て以太利に行きし時には多分ガリレオと相會したりしならむ。千六百三十七年英國に歸りて後、其の開發し得たる思想を組織し其が學說を傳ふべき著述を成就せむことに著手せり。千六百四十年議會が王權黨を窘迫し初めむとするやホッブス其の危害の己が身にも及ばむことを慮り國內の紛擾を遁れて佛蘭西に行きこゝに靜かに其の學を攻むる地を求めたり、盖し彼れは自國に於ける非王權黨が上下の安寧を亂さむことを憂へ旣に之れに對する自己の意見を吐露したればなり。然るに其の後其の國家論を發表したる名著『リヷイアサン』の故を以て彼れは加特力敎徒及びエピスコパルかたぎの王權黨に容れられず其れが爲め英國王子(後の英王チャールス第二世)の師傅たる位地を失ひ千六百五十二年英國に歸れり。爾後只管其が著作の完成に從事し、又王朝の復興するに逢ひては國王チャールス第二世の厚遇を受け、千六百七十九年九十一歲の高齡を以て歿せり。彼れは終生娶らず。