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り見れば事々物々皆融會して一なり。

シェルリングは其の第三期の哲學に於いては神祕說に入りヤーコブ、ベーメ風の思想に從ひて凡べての物の名づくべからざる根元より其の無意識的なる衝動が有意識的にならむとして而してこゝに活動する神の生じ出づることをば始めとして、其の以後の世界及び歷史の歷程を說かむと試みたり。彼れが此の時代の思想に於いて最も注意すべき點は、唯だ成り得るもの或は唯だ活動し得るもの即ち盲目的なる力と、其れが活動して成らむとする極致を示すものとの二つを相結びて說きたることにあり。

シェルリングより長ずること五歲にして又同窓の學友として彼れと親しかりしヘーゲルは、恰もシェルリングが初めフィヒテの立脚地に在りしが如く、初めにはシェルリングと意見を同じうしたること多かりきと考へらるゝが、後に至りて終に彼れが特殊の見地を開きて兹に謂はゆる「ヘーゲル哲學」てふ大組織を立つることとなれり。フィヒテがカント哲學をして取らしめたる方向を取りて之れを其の當さに到るべき窮極の處に到らしめたるもの是れ即ちヘーゲル哲學なり。