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なり。かくの如く自然界と精神界とは聊かも反對をなすものにあらずして寧ろ一が他の發達の前段階を成すものなるが故に兩者おのづから相應じ相似たる所の在るなり。シェルリングに從へば自然界は決して死物にあらず、其は無意識なれども目的を有して活動する一團體なり、而して其の最下等の段階より上りて謂はゆる生物の界に至り而して生物に於いて精神の出現し出づるに至る次第を說けるもの是れ即ち彼れが自然哲學なり。彼れ以爲へらく、精神の發達して自然界を知り行くもの是れ即ち知作用なり。自然界の發達とは精神が自然界に生じ出づることをいふものにして知作用の發達とは自然界が我に來たることをいふものなり、換言すれば、知作用の發達とは精神が恰も嬰兒の如くにして自然界に生まれ來たれる時より其が意識を開發し行くに從ひて自然界が其の意識の中に入り來たることの謂ひなり。知作用の發達し行く極點は其の終に行作用となるに在り、而して行作用は人類の歷史に現はるゝものなり。知作用と行作用との一致したるもの是れ即ち美術的活動なり。自然界は無意識にして而かも目的を具へて活動するもの、美術的製作は有意識なれども其の作る所は恰も自然界が無意識に