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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/640

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以外に置きたる物自體てふ觀念が取り去られたりといふも可なり。斯くの如くを置くことと相離れずして非我を置く働きあり、而して斯く非我を置きて我に對せしむると共に、其が置く所の我も、置かるゝ非我も、共に我の活動に外ならざるがゆゑに、我が我に於いて分我に對して分非我を置くと云ふべきなり。一言に云へば、我が我を意識することは我と非我との對峙と相離れず、而して斯く我と非我とを對せしむるもの亦是れ我の活動に外ならず。

かくの如く我が非我に對する時に於いては知我として活動す、換言すれば、主觀が客觀に對する所に知識てふ活動は始まるなり。而してフィヒテは件の知我の發達の段階としてカントが謂はゆる時空てふ直觀の形式及び十二範疇の出で來たる所以を說かむと試みたり。以爲へらく、知我の發達の頂上はが十分に自意識に達したる所に在り、別言すればに對して非我を置き而して今迄我が其の非我に限られ居るが如くに思ひたるなれど其の非我も畢竟ずるに我の置ける所なることを悟るに至る、是れ知我發達の頂上にして茲に知我行我と轉じ來たるなり。要するに、行我に循うて非我の境涯を形づくらむとするものなり、換言