Page:Onishihakushizenshu04.djvu/639

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ヒテはまさしくカントの哲學に於ける此の主心的方面を其の眞實なる又正當なる意義となし而して此處に自家の思想を結び來たれるなり。且つまたカントが外界を以て吾人の心性の所造より離れて存在するものにあらずと見たる時にも吾人の心性を言ふや唯だ其を個人的のものとせず寧ろ個人の意識に通じたる根基とも云ひ得べき遍通的意識の在るが如くに言へる所あり。而してフィヒテは其が哲學の根本思想を此の點に得たるものといふことを得。彼れに從へば、凡べての物は皆斯かる個々人の心作用の遍通的根基ともいふべき根本作用を以て其の窮極的根元となせるものなり。而して彼れは此の窮極的根元を名づけて絕對我と云へり。

フィヒテに從へば、凡べての物の根元はの活動に在り、而しては靜かなる一の事實又は存在と云ふべきものに非ずして寧ろ活動なり。即ちたる所は其の自らを在りとする作用に存す、此の作用を離れて何等のといふものの靜かに橫はる如きことあらず。凡べての存在の根本は即ち此のなり、而しての活動を自識する是れ即ち理知的直觀なり。是に於いてか、カントが吾人の知識の境涯