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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/64

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得たるが如く思ひ、言語の存するあれば其が表はす實物も亦眞に存在するかの如く思ふを常とす。されど此の如き書籍的知識は眞實の知識にあらず。眞知識を得、眞學問を爲さむには先づ實物を觀察し自然界を硏究せざるべからず。第三に去るべきは個人各自の性癖なり。吾人は各自の性癖に循ひて狹隘偏癖なる獨斷の見に執し易し、是れ恰も己が棲む穴に閉ぢ籠もりて其の他を顧みざるが如き過なりとてベーコンは之れを洞窟の偶像idola specus)と名づけたり。各自の性癖の影響する所かくの如き偏見を生じ易きが故に吾人は必ず他人の經驗をも考察して廣く比較的硏究を爲さざるべからず。第四に去るべきは凡そ人間の性質上なべて有する頃向にしてベーコンは之れを人類の偶像idola tribus)と名づけたり。其の中最も著大なるは吾人が目的を追ひて萬事を行ふより推して自然界の出來事も亦恰も何等かの目的に向かつて生起するものなるが如くに觀ること是れなり。然るに此の目的觀は眞に自然界の現象の生起を說明する所以の道にあらず、自然界の事は畢竟原因結果の機制的關係を以て解釋せざるべからずと。かく目的上より自然界の現象を觀ずして全く機制說の上より之れを考ふるは是れ即ち近世