Page:Onishihakushizenshu04.djvu/638

提供:Wikisource
このページは校正済みです

り。かくては知的理性によりて吾人に示さるゝ所と行的理性によりて示さるゝ所とが何故にかくも相分かるゝかを解す可からず。フィヒテの目的は此等カントの所說の中、其の相互の關係の明らかならざる所、又其の由つて出づる所の根元の明らかならざる點に就いて其の說を補はむとするに在り。殊にカントが謂はゆる物自體といふ觀念の如きは彼れの說けるまゝにては種々の困難あるを以てフィヒテは先づ此の點を改めむとせり。一言に云へば、フィヒテはカントが說ける主要なる思想より其が矛盾の點を除去し、相互の關係の無きものを相關聯したるものとなし、而して一根元より全體を開發せしめむと試みたるものなり。而して此の目的に向かひて進み行ける結果として彼れは終にカントを出でて別に其が特殊の立脚地を開けるなり。

カントの說ける所に從へば、吾人が見て以て外界を爲す所のものも實は吾人の心性の所造なり。殊に其の知識論の主心的方面に從へば、外界てふものを形づくる知識の材料として吾人に與へられたる感覺のみならず其の感覺を與ふるかの如くに云はるゝ物自體其の物も亦吾人の心を離れて存在すといふこと能はず。フィ