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其の名聲を高め來たりき。其の晚年に及びては終に赫々たる大名を博し得て四方より其の謦咳に接せむと欲して笈を負うてケーニヒスベルヒに遊學するもの多く、中には他大學の敎授にして猶ほ親しく彼れの說を聽かむとて來遊せるものさへありき。

されど彼れに對する反對論も亦盛んに起こり而して其の反對は種々の方面より爲されたり。ライブニッツ‐ヺルフ學派の立場よりして彼れを攻擊したる者の中にてはエーベルハルドの如き其の錚々たる者なりき(第四十六章第七節を見よ)。エーベルハルドはカントの哲學を攻擊せむが爲め特に雜誌を發行したるほどなりき。又多少獨立の立場より攻擊を加へたる者にはガルフェの如きあり(同上を見よ)、又當時の啓蒙的思潮の先導者にしてロックの立場よりカントを攻擊したるも少なからざりき。

右等の人々よりも攻擊者として更に注意する價値あるは曾てカントの講義を聽聞したることある文豪ヘルデルなり(第四十六章第九節を見よ)。彼れはスピノーザ風の說にライブニッツ風の思想を混じ且つ詩歌的趣味を以て解したる一元論