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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/613

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が斯く自らの足らざることを認むるや此處に苦痛の感を起こし來たれども其の反動として理性の勝利を現はすことに於いて快感は生じ來たる。故に壯麗に於ける快感は其れが苦感に先だたるゝ點に於いて美麗の快感と異なり。壯麗の感は此の點に於いて寧ろ尊敬といふ道德上の感情に似たり。

《自然美と藝術美。天才論。》〔四七〕カントは自然美と藝術美とを區別して曰はく、前者は美はしき物、後は一物を美はしく想念したる物なりと。(此の語は後の美術論に於いて深き意味を含める者とせらる。)彼れは最も自然美を貴びたれども又此の點に於いて美術の價値を發見せり。以爲へらく、美術の長所は天然の有樣其の儘に於いては醜きものをも美はしく表現し得る所に在り、美術によりて美はしく表現せらるゝこと能はざるは唯だ嘔吐を催ほすが如きものあるのみと。

カント曰はく、美術的製作物は其れが恰も天然に生じたるものなるが如く見ゆるに於いて始めて眞に美なり、天然物は恰かも其れが藝術によりて生じたるものなるが如く見ゆるに於いて始めて眞に美なりと。其の意盖し天然物は自然に生じながら其れが恰も目的に合ひ居る點に於いて藝術の所造なるかの如く見え、美術