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欲して後者に於ける觀美的判定は不純粹なるものなりと云へり。故に彼れに從へば、理想を現はすことに係かる美は凡べて不純粹なるものなり、例へば人身を見るに唯だこれを其の形式の上に於いてのみせずして人間たるべき想(Ideal または Normalidee)が其れに善く現じたりといふ點よりして其を美とするは是れ不純粹なる觀美的判定なり。而して這般の理想はおのづから道德上の觀念に聯結し來たるべきものなり。さればカントに從へば、此等の觀念を現はしたる最も意味深き美は最も不純粹なるものと云はざるべからず、是れ彼れが其の純なる形式說以外に出でざるを得ずして猶ほ表面上の形式說を維持せむとしたる結果なり。
《美麗と壯麗、壯麗と道德的觀念。》〔四六〕カントは依他美を言ふことに於いて終に道德的觀念に逢著したるが如く亦壯麗(Erhabenheit)(彼れはバークと共に美麗と壯麗とを相比べて說けり)を言ふことに於いて其の觀念を持ち來たれり。以爲へらく、壯麗は美麗とは異なり定形なきものに於いても發見することを得、盖し吾人は一切の比較を超絕するほど大なる若しくは强きものに對して其を壯麗なりと感ずと。斯くしてカントは壯麗に數的のものと力的のものとの二種を別かてり。前者は吾人の知性に對するものにして吾が知力を以て商